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第一編 序説 東京専門学校創立前史

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第六章 人間的感化 ――枝吉神陽――

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一 楠公義祭同盟

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 大隈重信が数え七歳にして入った弘道館外生寮が小学校の如く、十六歳にして入った同館内生寮が中学のようであったことは前に述べたが、この間十三歳にして父に死別した外、この修学生活は、教えられた朱子学の無味乾燥だったことと、寮で給せられる胡麻塩むすびが旨かったことを語るのみで、思い出の教師の風貌や、それから受けた感化などについては少しも言及するところがない。

 それでは、学問ができなくていわゆる不成績であったのかというと、その正反対で、内生寮に進んだ時は一番が大隈重信、二番が木原万五郎、三番が平川孝哉で、大隈はまた灑掃頭にも任ぜられていた。灑掃とは、拭いたり掃いたりで、つまり小学校の掃除当番に当る。その掃除当番の仕事の監督には、一番から三番までの秀才の中から選ばれる。たとえ首席でも、下級生の取締りに向かぬいわば統御の貫禄に乏しい性格の者があるから、こういう制度になっていたが、大隈は一番で且つ灑掃頭であった。

 しかし正科として学ぶことが一向につまらなくて、不満を覚える。何かもっと実があって、心に響く内容の書を読み、血の湧き立つようなことをしたい。人間十七、八歳の学生の時は、漸く自我の覚醒がつき始め、批判の目が開き、いわゆる生意気になるのは、昔も今も同じである。たまたま大隈は、弘道館外に、義祭同盟という一つの組織があるのに注意を惹かれ、それに加入することになった。義祭とは楠木正成を祭るので、当然、『葉隠』の教える「孔子も楠木も鍋島藩に仕えた者でないから尊崇の要がない」とする狭隘固陋の藩中心主義の外にはみ出て、天皇は一人、臣民は全国民だとする国家主義の信奉の方へ一歩傾斜していくわけである。

 鍋島藩に枝吉南濠という先覚がおり、夙に、日本は一君万民の国であるという意味の説を唱道していたが、時が早くして、耳を傾ける者がなかった。鍋島直正が藩主となって入封するに及び、初め烈公の徳川斉昭を慕うて、水戸との親交の道が開け、水戸学が入ってきて藩の教学にも漸く多少の動揺が起らずには済まぬ。南濠の子の枝吉神陽は、父の説を拡張して、しかもその水戸学まで不満として、「大日本史が将軍家臣列伝を立てたのは何たる失態か。日本には天子の外に君なく、従って臣といえば全国民である。その他はみな主従の関係で、君臣ではない。」と力説するに及び、一部の書生は靡然として彼の門に集まって行った。たまたまその頃、藩主の菩提所の高伝寺の楼門の屋根下から、楠公父子訣別の像が埃にまみれて発見せられた。

 これは古く延宝二年、深江信渓なる者が楠公の忠誠を慕い、藩主鍋島光茂以下の喜捨金を集めて、京都でこの像を彫刻させて、藩に持ち帰って、敬拝していたものである。徳川光圀が湊川に「鳴呼忠臣楠氏之墓」の碑を建てるより十八年も前のことである。しかし当人の信渓が死に、更に『葉隠』が勢力を得て来るに及んで、あわれ楠公父子像は木屑とひとしなみに扱われて、行方を失うこと百八十年に及んだが、一たび見出されると、枝吉神陽は相良宗右衛門、島義勇ら同志と計って、埃を洗うて、佐賀の城西梅林寺においてこれが祭典を催し、終って往時を追懐し、時事を談論する会を開いた。時に嘉永四年で、明治天皇の生誕の前年、ペリーの黒船が浦賀に来航する二年前である。

二 楠公と大隈

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 一四九四年の昔、イタリア、ミラノの郊外で、土の中からギリシアの古彫像が発見せられた。宗教家はDiabolessaBianca(雪白魔女)と呼んで唾棄し、新しい青年たちは世にも類のない美の女神の像だと言って随喜渇仰する。それはヴィーナスの像だったので、たまたまそこに顔を現したレオナルド・ダ・ヴィンチの目に触れ、それから端を発して、世界史上最も光華燦然たるルネッサンスの展開してくる様相は、ロシアの文明批評家兼作家メレジコフスキーの名作『神々の復活』(別名『先駆者』)に描かれている。すなわち単なる一彫像の発見も、時所その期に合すれば、光輝に充ちた新時代招来の因となるのである。

 佐賀市外の古寺の楼門の屋根裏から発見せられた楠公像の果した時代的役割は、いくらか上記のヴィーナス像に似ていないであろうか。徳川の覇道政治が行われてから楠氏尊崇の伝統が、全く絶えていたわけではない。それは由比正雪が楠木流の軍学と称して一味を嘯集しようとしていたことや、水戸光圀が「鳴呼忠臣」の碑を湊川に建てて、天下人心に訴えようとしていたことからも分る。しかし泰平の世の打ち続くとともに、いつしか忘れられていたことも事実である。それが徳川の世も斜陽期に及んでくると、頼山陽の『日本外史』は「勤王の功は楠氏を以て第一とす」と論じて、勤王の志士の蹶起を促し、藤田東湖は「正気之歌」で「或は桜井の駅に伴ひ、遺訓何ぞ慇懃なる」と吟じて士気を鼓舞し、博徒にして詩人なる日柳燕石は、

日本在聖人、其名謂楠公。誤生二干戈世、提剣為英雄。

の一絶によって畿西の志士に遍く愛誦せられた。この機運が鍋島藩においては楠公父子像の発見とともに、同志の団結を促し、「義祭同盟」という組織が生れたのである。これが藩主鍋島直正の異腹の兄なる執政鍋島安房の耳に入り、これを藩主直正に伝えると、さすがに若くてもやがて天下五名君と言われる大名だけに、大いに賛意を表して、竜造寺八幡宮を清めて祠堂を造り、楠公社と名付けて木像を安置した。

 そして嘉永七年に至り、五月二十五日を期して、安房自ら盟主となって、盛大な特別祭典を行ったので、数え十七歳になった大隈はこの機を期し、一歳年下の久米邦武とともに、義祭同盟に加入したのである。これはあたかも第一次世界大戦の後で、デモクラシーの思潮が世界を風靡するとともに、さすがに日本も大逆事件後の鉄の思想統制が緩んで、東京大学では吉野作造指導の下に新人会、早稲田では北沢新次郎大山郁夫の影響下に民人同盟会、建設者同盟などが誕生したような趣があった。この義祭同盟の中心の枝吉神陽は、安政四年五月二十五日、次のような祭文を読み上げている。

祭楠神文

高天肇事、大統爰源、監豊葦原、降格天孫、天孫日嗣、孔神体元、追外万国、莫不祇尊、中葉屯艱、陪臣擾国、六合常闇、八洲鬼〓、神器離闕、皇輿反側、坤覆乾承、無是敢克、天篤元后、生此楠神、赫赫烈烈、以奠九宸、千窟如掌、東人兟兟、保此千窟、以遏東人、遠近望風、義師雲起、新田足利、摂踵接履、拉賊若朽、鎌倉爰煆、鯨鯢就戮、万有致底、復我元后、庶政方隆、如何禍日、降禍無窮、姦究滔天、佳猷不通、命殞寇賊、遺児図終、維此武衛、克纉考志、梓弓不反、誓与賊斃、伐強以弱、撃衆以少、甲弊刀折、首離不撓、百年天定、賊党亦亡、神器得所、大道光亨、茫茫葦原、終古幾人、孰無忠孝、少若二神、我思二神、慕義無極、是忠与孝、庶以為則、酌有黒白、鰭有広狭、積如丘山、禋祀以告。 (的野半助編『江藤南白』上 九六頁)

その人となりと、志向の一端を偲ぶに足る。

三 大隈自ら語る

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 この枝吉神陽に対しては、大隈は多くの談片を残しているが、その一つに次のようなのがある。

副島〔種臣〕の兄、枝吉杢助〔神陽〕の如きは此事に関して最初より力を尽し、実際には此同盟の牛耳を執りたりし。楠公の像を遷して祭る程の事は、今日の思想に於ては誠に易々たる業なるのみ、何ぞ同盟を企てて其運動を為すを要せん。されど、当時に於ては則ち然らず。苟くも事物の変更存廃を為さんには、必らず全藩の異議を排するの必要あり、従つて、強固なる団体と有力なる運動家とを要せしを以て、乃ち彼の同盟を組織するに至りしなり。其時、余は年甫めて十六七にて、中学〔内生寮〕に在て此事あるを聴き、喜んで枝吉の下に就たり。枝吉は余が平素より尊信したる人なれば、直接に其訓淘を受けんことを望みしに、幸にして彼れと交を訂せしより、余は義祭同盟の人々と往復するの便を得て、其結果は多くの年長者を交友と為すを得るに至れり。後に至りて此同盟者の中には、政治界に立ちて其頭角を見はしたるもの少なからず。されば、余の之に加盟したるは即ち余が世に出て志を立つるの端緒と謂ふて可なり。 (『大隈伯昔日譚』 二三―二四頁)

大隈が父母を除き、先ず著大な感化を受けたとして語っている最初の人は枝吉神陽である。世に出で、志を立つる端緒をなしたというのだから、大隈と関係せしめて最初に語らねばならないのは、枝吉神陽であろう。

四 佐賀の「吉田松陰」

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 枝吉神陽は、藩学の教諭枝吉南濠の長子として、文政五年、佐賀鬼丸に生れた。名は経種、通称は杢之助。神陽の次弟は副島種臣(蒼海伯)で、大隈の先輩且つ親友であり、のち明治の功臣として外務卿、参議であった。枝吉家は、父南濠の時から、藩学または天下の御用学朱子学と異った傾向をとって、国学に注目し、つまり皇学を表にして、南朝の忠臣、楠木、名和、児島、新田諸氏の節義の顕彰に努めるとともに、漢学をその裏付けとし、一個の枝吉学風とも言うべき主張を以て、青年に説いて、多大の感化を与えていた。

 その長子杢之助は、幼にして学才抜群、のち江戸に出て昌平黌に入り、研鑽の功空しからず、遂に舎長に挙げらるるに至った。当時最も親交を結んだ同学の士に頼三樹三郎、十文字良介、矢野茂太がおり、身は幕府直轄の最高学府に学びながら、尊王の大義を唱える異端であった。殊に三樹三郎は頼山陽の子で、安政の大獄に連座し、小塚原に斬首せられた激情家であったこと、広く世の知る通りで、それと最も心契の深かったということは、自らその人物を想望せしめる。交友間でも、彼に漸く長者の風が現れ、その志士的傾向から水戸の藤田東湖と並べて、東西の二傑と併称せらるるに至った。

 神陽は帰国して藩学の教諭となり、子弟を訓育したが、後に佐賀出身者にして、勤王の志を遂げ、明治の功臣となった者、副島種臣は言うまでもなく、大隈重信・江藤新平・大木喬任など、悉くその門下生なるを見れば、神陽はあたかも、伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎その他多くの元勲功臣を陶冶した長州の吉田松陰に似た役割を佐賀において果した者である。その頃藩主鍋島直正は、枝吉家が皇学を宣明するを奇特とし、神陽の弟副島種臣を京都に留学させて、その研究を深めさせることになった。父南濠の喜びは言うばかりなく、古詩一篇を詠じて餞としたが、中に次のような句がある。

特旨命爾游上国。裘葛三換宿志攄。皇都従来神国本。専門世々多宿儒。礼楽今日未墜地。文献可徴自粲如。

(『副島種臣伯』 七五頁)

 ところが兄の神陽の方は、大変な無謀を勧めた。大原三位の引接を乞い、敢えて進言せしめたのである。「今や、黒船の来航とともに国の開鎖の論が紛々として帰着するところを知らぬが、この際、閣下、主謀となって幕府を討滅なされば、快事この上なく、皇家千歳の衰運を挽回するに至る。開鎖の論の如きはその後でも遅くはあるまい。」大原三位は軽く扱う積りで答えた。「自分はそういうことのできる地位にいない。よろしく青蓮院宮に奏上したがよかろう。青蓮院殿下は、今上(陛下)の肺腑であり、且つ賢にして実行家であらせらるるから、そうしたらそのことが成就するかもしれない。」と。大原三位は、主上に次いで有力な、いわば宮廷に飛ぶ鳥を落す勢いの青蓮院宮家に行けと言ったら、陪臣の軽輩として遠慮して手を引くだろうと思ったかもしれぬが、一徹な青年の種臣は、諦めず宮家を訪ね、伊丹蔵人という用人に会うを得て、また同じ主旨のことを述べた。忽ちこのことが幕府役人に聞え、藩に呼び戻されて閉門を命ぜられるに至った。

 こういう重大事態の起った後だから、藩主鍋島直正は、ある者が神陽を目して「藩室を軽んずる者だ」と讒訴したので、直ちに彼を呼び出した。平生、日本は一君万民で、君と称すべきは天皇御一人のみ、また臣とはその天皇に対してのみ呼ぶべきで、他にみだりに使うべきではないとの持論で、藩主或いは藩公と呼んでも、断じて藩君とは言わず、また藩士、或いは家中とは言っても、決して藩臣の語は用いなかったのだから、糾問を受けるのは当然のことである。神陽は開き直って、「藩室を軽んずるというのは、朝廷を尊崇するからでございましょうか。私が朝廷を尊崇するのは、すなわち藩室の義をなす所以であって、つまり藩室を重んずるからのことでござります。」と弁明すると、さすがに名君直正は、点頭して、それ以上咎めなかったという。

 文久二年八月、夫人が当時全国流行のコロリ(コレラ)に罹って死に、それを看護中に神陽も感染した。不治の難病だから、自ら再起のかなわぬのを覚悟し、家人に命じて礼服を持ち来たらせて枕もとに置き、左右から扶けてもらって起きて、遙かに皇居の方を拝し、「草莽の臣大蔵経種事畢る」と言って終命した。

 明治になって神陽を崇拝した中島吉郎(『佐賀先哲叢書』の著者)が、画家に嘱し、神陽の楠公像前に額つく画を描かせて、弟の副島種臣に讃辞を乞うと、次の一絶を題した。「音吐如鐘眼如炬、端然威貌拝楠公。勤王精魄真伝得、興起肥前百万民。」実兄を詠んだ詩としては、憚らず手放しで讃美したものだが、しかし実際にかくいうに値したことも間違いない。詩にある如く魁偉の状貌で、方面、烱眼、隆鼻、長耳、口は大きく音吐また高くて、談論はいつも四筵を驚かせた。健脚で一日に二十里を歩き、神社仏閣を参拝した。明治四十四年、明治天皇は最後の大演習に筑紫行幸があり、神陽の功労を追賞せられて従四位を贈られた。

五 南北朝正閏論と早稲田

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 大隈の人生の門出に、最初の深大な影響を与えた枝吉神陽は、およそ以上のような人であった。その主唱の義祭同盟は、彼の生前にはしばしば会合を催し、時事を語り、尊王を談じ、時ありては酒宴を催して盛んに気焔をあげた。それが大隈の知見を開き、思想を固めるのに役立ったこと多大なのは、大隈の語る如くである。

 しかし楠公その人に対しては、後年、特別に大した関心を寄せたとは思えない。少くとも大隈の遠祖と言われる菅公に対するほどの関心は持っておらぬ。従ってその後大隈邸に楠公を祭ったとか、その所見を著述にまとめたとか、また特別に早稲田の学生に彼の口から楠公精神鼓吹の講演をしたとかいうことはなかった。却って明治の末年、南北朝正閏論なるものが突発して、文部省と議会と学界が大論争の渦巻きに巻き込まれると、学内の一部急進学者は輿論に反して、早稲田学苑は宛然北朝正統論の牙城たる観を呈した。

 その発端は、文部省新発行の国定歴史教科書の記述に、南北両朝を差別をつけず記述されているのを一代議士が発見し、議会で大いに問責しようとすると、ことは国体に関して当時の桂内閣の死命を制する重大問題に燃え上がる勢いを呈し、政府は周章狼狽おくところを知らず、その代議士を懐柔して質問を封じ、教科書を執筆した編修官喜田貞吉を休職処分とし、従来の南北朝時代を吉野朝時代と改称することで、漸く難局を糊塗し得た。

 輿論は、真二つに分れるというより、政府と文部省の失態を責め、南朝正統論を以て嗷々として湧いたが、独り在野私学の早稲田は、政府に媚びず、輿論に同ぜず、久米邦武吉田東伍とは歴史的立場から、浮田和民は憲法論・政治論の立場から、北朝正統論を以て対抗して下らなかった。三博士は共に、早稲田の最も重要な花形教授、看板教授であっただけに、この城北の大学は天下の輿論に対抗する如く見え、国賊呼ばわりをする者もあった。楠公の大義も、南朝正統であってこそ光焔を発するので、北朝正統ではその忠節の意義、価値が減少し、消滅するに近いのである。

 尤も早稲田には、この問題を提起して、天下を騒然たらしめ、議政壇上によって政府に詰問しようとした藤沢元造代議士の身辺を気遣って、これをその家庭に庇護した漢文学の牧野謙次郎松平康国の両教授もいて、学苑内の意見二つに割れたるかの如き外観を呈したが、大隈総長は、別に何れに賛し、何れを責めるでもなく、教授の思い思いに好きに任せて、自由の学苑の名を辱かしめなかった。